2009年05月16日
マキシミリアノ・マリア・コルベ神父。
1894年生まれのポーランド人キリスト教司祭で、日本にも1930年に宣教のため来日。『聖母の騎士』を出版。聖母の騎士修道院を建てるなど精力的に活動しました。
このコルベ神父を有名にしたエピソードがあります。
1936年日本からポーランドに戻ったコルベ神父はカトリック司祭として布教活動に勤しんでいたのですが、
コルベ神父がナチスに対し批判的な姿勢だった事などから、1941年2月にナチスに捕らえられワルシャワのパビアク刑務所に連行されてしまい、さらに同年5月にはあのアウシュビッツ強制収容所に入れられ強制労働を強いられました。
同年7月。アウシュビッツ第十四号棟の一人の囚人が収容所から脱走。すぐ捜索されましたが捕まらず、同じ第十四号棟のランダムに選ばれた囚人十名がみせしめの為の餓死刑に処せられる事が囚人達に告げられました。
その選ばれた囚人十人のうちのひとりのガイオニチェックさんという人が「私が死ねば妻や子が悲しむ」と言って命乞いをしましたがフリッツ所長はそれを許しませんでした。
それを見たコルベ神父は「私には妻も子もいない、あの人の代わりに私が死ぬ方がいい」と自らその囚人の身代わりになるよう申し出たのです。
所長はそれを聞き入れ、ガイオニチェックさんを受刑者から外し、代わりにコルベ神父を餓死監房に入れました。
餓死監房に入れられた受刑者は通常、錯乱するのも珍しくないほど精神的に追い詰められますが、
コルベ神父が入れられた牢では受刑者が互いに励ましあい、牢内からは祈りの声と賛美歌が聞こえ、まるで教会堂のようだったといいます。
牢に入れられてから2週間経ち、すでに十人のうち六人は息絶えていましたが、コルベ神父はまだ意識を保っていました。
ドイツ兵は餓死刑ではなかなか死なない囚人にフェノール注射を打ち毒殺。こうしてコルベ神父の人生の幕は閉じました。牢に入れられて十五日目の事です。
コルベ神父に助けられたガイオニチェックさんは1945年のアウシュビッツ解放によって助かり、亡くなるまで世界各地で公演を開いてコルベ神父の事を伝えたそうです。
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