2009年04月26日
呂雉(りょち)(呂太后)とは、紀元前202年に中国大陸の漢王朝を築き即位した皇帝劉邦(りゅうほう)の皇后です。劉邦の死後、息子の劉盈(りゅうえい)が恵帝(けいてい)として即位しています。
劉邦は穏やかな性格の劉盈をあまり快く思っておらず、側室戚夫人(せきふじん)の息子、劉如意(りゅうにょい・りゅうじょい)を気に入っていました。また、戚夫人も寵愛していました。
戚夫人は度々劉邦に息子の如意を皇太子とする事を進言したといいます。
劉邦も如意を皇太子として立てる事を考えていましたが、重臣達の反対などの理由により、結局呂雉の息子の劉盈が皇太子となり、呂雉もそれを支えました。
劉邦の死後、呂雉は恵帝となった息子の劉盈の後見人となり、権力を握ります。
そして劉盈のライバルだった劉如意を殺し、劉如意の母親の戚氏に対しても惨い仕打ちを行います。
中国の歴史書『史記』によると、
呂雉は戚氏を牢獄に監禁し、1日中米をつかせる罰を与えました。
その後、戚氏の両手両足を切断。目玉をくりぬき、薬で聴覚と声を潰した状態にして便所に置いて晒し者にし、人々に『人豚』と呼ばせたそうです。
母親のこれらの残虐行為にショックを受けた恵帝は政務を放棄し酒に溺れ、23歳の若さで亡くなりました。
呂雉のこのショッキングなエピソードは清末期時代の西太后と混同され、西太后にも同じようなフィクションのエピソードが創られています。
この呂雉と西太后と周の女帝、武則天(則天武后)は『中国三大悪女』に数えられています。
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