名君か悪女か?女帝『武則天』


2009年09月13日

歴史上の恐い人シリーズです。

武則天(ぶそくてん)。日本では則天武后ともよばれます。
周王朝の皇帝。長い中国史上ただ一人の女帝で、中国史三大悪女の一人とされています。
とても美しく聡明で、才色兼備な人だったとか。

結構過酷な少女時代を過ごしていましたが、14歳の時に太宗(たいそう:唐の第二代皇帝)の後宮に入ってから人生が変わります。
太宗の崩御後、高宗(こうそう:唐の第三代皇帝)の皇后の王皇后と側室の蕭(しょう)淑妃が対立し、
王皇后は高宗から蕭淑妃を遠ざけようと、高宗に武照(武則天)の後宮への入居を勧めました。
しかし武照の入居後は蕭淑妃だけでなく、王皇后までも高宗の寵愛を受けられなくなってしまいました。

王皇后とその母柳氏が武照を祈祷で呪い殺そうとした事が高宗にバレてその逆鱗に触れ、
その後高宗は王皇后と蕭淑妃の二人を廃し投獄。
武照を新たな皇后としたのです。

武則天の悪評要因のひとつがこの後。
皇后となった武則天は投獄されていた前皇后の王氏と前淑妃の蕭氏を百叩きの刑に処した後、手足を切って四肢切断し、ふたりを酒壷に投げ込ませました。
ふたりは酒壷の中で数日間泣き叫んだのち亡くなったのですが、
蕭氏は絶命の際に、武則天が生まれ変わったら鼠になり、自分は猫に生まれ変わって武則天を喰い殺してやると呪いながら死んでいったのです。
その後武則天は宮中で猫を飼う事を禁止したそうです。
なんとも壮絶な人間ドラマ。

そのほかにも、武則天は自分の子供を死なせるなど悪評を呼ぶ行いをしていますが、
武則天は決して民衆を苦しめる暴君ではなく、良い政治を行う名君であったと言われています。
そのこともあり、現代においての武則天の評価は酷評と賞賛の間を揺れているのだそうです。


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